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2023.12.28

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか 理想郷譚プロトタイプ
第53話
英雄願望③

少年が駆け出していく。
アイズの唖然とした視線をその一身に受け、小さな冒険者は待ち受ける巨大なモンスターのもとへ飛び込んでいった。


「ま、ダンジョンで獲物を横取りするのはルール違反だわな。ふられたな、アイズ」

「……」


置いていかれてしまったアイズの背中に、ベートはのん気に言う。
冒険者としてあいつの方が正しいと鼻で笑った。
ルームにはベートとエルナに続いてエルマが到着しており、遅れてリヴェリアとフィンも足を踏み入れていた。彼等が目撃する中、ベル対ミノタウロスの戦いの火蓋が切られる。
相手の初撃を上手い具合に避けたベルをちらと見たベートは、「ほー」と口を円にした後、「ん?」とあることに気付く。


「あの白髪頭……もしかして、あの時のトマト野郎か? くっ、はっはははっ! 何だよ、つくづくミノタウロスと縁があるみたいだな、あのガキ!」

「それって、アイズが間一髪で助けたっていう?」

「おお、間違いねえ! ミノタウロスに惚れられちまったんじゃねえか! あのガキが恋しくて、はるばる中層からやって来ましたってよ!」

「ふざけないで、ベート」


エルマの注意にベートは肩をすくめる。
ニヤニヤと薄笑いを浮かべてアイズとベルを交互に見た。


「そりゃ助けられたくねえよなぁ~。前に助けられちまった時とまるきり同じ状況で、みっともねえ所を見せた相手になんかよ~」

「ねぇ、いいの? あの男の子、Lv.0なんでしょ? 絶対にミノタウロスにやられちゃうよ!」

「トマト野郎が決めたんだ、俺達が口出しするもんじゃねえっての。なぁエルマ」

「私に振らないでくれる?」


笑みを残したまま軽々しい態度を崩さないベートに、エルマは呆れた表情。
三人で小さな円を作る中、エルナは異議ありとばかりに食ってかかった。


「どっちにしたって、あのミノタウロス放っておくわけにはいかないんでしょ! 先か後かの違いだけじゃん! あたし、行くよ!」

「放っておいてやれって。あのガキ、“男”してるんだぜ? あれだけ痛い目にあって身の程知らずってわけじゃねえだろ。また助けられちまったら、俺だったら死にたくなるね」

「ベートの美学なんてどうでもいいし!」


現状を忘れぎゃーぎゃーと喚くエルナ達だったが、そこにかき消えてしまいそうな声がかかった。
小さな影がずるずると己の体をひきずり、よろめく。


「……お願いします、冒険者様。ベル様を、助けてください……」

「パ、パルゥムちゃん……」

「な、何だよ! 離せっての!?」


変身の解けているリリが、倒れ込むようにしてベートのバトル・クロスを掴んだ。
震える小さな手が膝に取りすがってきて、ベートはあからさまに動揺する。


「ご恩には必ず報います。リリは何でもします、何でもしますからっ……ベル様を、助けてくださいっ……!」

「お、おい……」


朦朧としながら必死に言葉を紡ぎ出すパルゥムの姿に、ベートは頭上の獣耳を垂らし、この時ばかりは弱り切った顔をした。
リリの背後に歩み寄ったリヴェリアが膝を折り、そっと彼女の両目を右手で覆う。左手をお腹に回し、そのまま抱き締めるように自分の胸の中へ誘った。


「まだ無理をするな。傷は塞がっても、流れ出た血は戻っていない」


リヴェリアの唇が詠唱を口ずさむと、翡翠色の光が目元を覆った手から発せられる。彼女が口にしたように、リリの傷は出血の痕を残して塞がりきっていた。
アイズ達がこのルームに駆け付けることができたのは偶然ではない。ひとえにリリのおかげだった。
ベルを置いて逃げ出せる筈のなかった彼女は、怪我を放置して必死にひた走り続け、執念か、9階層に到達していたアイズを見つけ出したのだ。
仲間のために助けを求めたサポーターの懇願が、彼等をこの場に導いていた。


「お願いします、お願い、します……っ」

「……ちッ」


うわ言のように呟かれる懇請に、ベートは苦り切ったように舌打ちをした。
灰髪をガリガリと無造作にかいた後、足を回し、アイズとベルのいる方向につま先を向ける。


「行くのか?」

「勘違いすんな、雑魚なんて助けるのはまっぴら御免だ。だが、自分より弱ぇ奴を苛める雑魚に成り下がるのは、もっと御免だ」


リヴェリアへ無愛想に言い返し、ベートは足を進めた。
ベル達の方に顔を向け、背中を見せているアイズに声を張る。


「どけ、アイズ! 俺がやる!」

「……」

「おい、何ぼさっと突っ立ってっ……」


アイズを追い越そうと彼女の真横に並んだベートは、ぴたりと動きを止めた。
相変わらず感情に乏しい少女の顔は無表情で――その金色の瞳だけが、驚愕に見開かれていた。
これ以上のない真剣な眼差しで、ある光景を真っ直ぐに見据えている。


「……あ?」


ベートも見た。
そして、固まった。
大剣を振り回すミノタウロスと、ナイフを閃かす少年が。
お互い一歩も引かずに、凄まじい剣戟を繰り広げていた。


「…………あぁ?」


苛烈な剣舞の音が鳴り響く。
あらゆる物を破砕する力の轟音と、どんな物も切り裂く速度の清音。過激な曲調がベートの鼓膜に届き、果てはダンジョン全体に染み渡っていく。
交わされるのは銀の光と紫紺の光の応酬だった。銀の輝きが振るわれたかと思えば、紫紺の閃きが円弧を作りあげる。
ミノタウロスとベルの両者が形相を作り、“互角”の攻防戦を展開していた。


「え……あ、あれ?」

「……誰がLv.0ですって?」


その交戦模様にエルナ達も気付く。
形勢こそ、その身体能力キャパシティを活かし攻め続けているミノタウロスが終始有利ではある。だが、誰もが疑わなかった蹂躙ワンサイドゲームはそこにはなかった。
あるのは、互いの命を平等な条件のもとで賭けた、確かな死闘だ。
一際甲高い音響が炸裂する。
大剣を短刀で弾いてみせたベルから視線を切って、エルナ達はベートの方をばっと振り向いた。どういうことか、と。
ベートは、答える術を持っていなかった。


「僕の記憶が正しければ……」


落ち付いた声音が転がる。
びくっと肩を上下させたベートは、いま自分がどのような顔をしているのかわからないまま、己の背後を顧みた。
彼等の首領であるフィン・ディムナが短い歩幅でゆっくりと近付いてくる。
自身の得物である長槍を担ぎながらベートの隣で足を止め、彼は静かに尋ねた。


「一ヶ月前、ベートの目には、あの少年が“いかにも駆け出し”に見えたんじゃなかったのかい?」

「……」


彼方で爆炎が咲いた。爆風が足の間をくぐり抜け、緋色の熱光に二人の顔が照らし出される。
じっと見上げてくる黄金の瞳に、ベートは頬を震わせたじろいだ。
駆け出しだった。間違いなく。
ミノタウロスに散々追いかけ回されていたあの子供は、戦いの基本も心構えも何もできていない、一目でわかる新米の冒険者だった。
失笑を買う、みじめな冒険者だった。
それが、


(何が、起きやがった……!?)


激変を遂げていた。
今ミノタウロスと渡り合っているのは、ベートの忌み嫌う、愚かで惰弱な冒険者の一人ではない。
確かな実力の片鱗を窺わせる、紛れもない新人冒険者ルーキーだ。
一ヶ月。まだ、一ヶ月である。
僅か三十日前後のスパンでは、才能に恵まれた冒険者とはいえ見違えるほどの成長は得られない。並大抵の冒険者ではそれこそ亀の歩みだ。
底辺の脱出からの、ありえない飛躍。
ベートは立ちつくす。
月日とも言えない短い時間の中で、もはや別人に化けたベルに戸惑いを覚えるしかない。
心中で巻き起こるのはことに対する不可解さと、戦慄だった。


「……」


ベートの隣でまた、アイズの視線もベル達に釘付けとなっていた。
透いた輝きを湛える金色の瞳が、驚きを孕み、僅かな興味に揺れている。


「ウヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」

「あああああああああああああああああああッッ!!」


雄叫びが走る。
モンスターとヒューマンが真っ向から衝突し、力と速度の戦いを継続させる。
自然にアマゾネスの姉妹はアイズ達のもとへ引き寄せられ、リリを横抱きに抱えるリヴェリアも合流する。
誰もが口を閉ざし、一人と一匹が交わす闘争を最も近い所から凝望した。


「…………」


精鋭である【ロキ・ファミリア】の冒険者達がその死闘を見守った。
第一級冒険者を名乗ることを許された彼等から見れば、やはりそれは稚拙な戦いだった。
彼等の足元にも及ぶことはない、レベルの低い争い。
けれど同時に、彼等の瞳を掴んで離さない何かがあった。少なくとも、彼等の足を縫い止める何かがその中にはあった。
ある者は瞠目し、ある者は鋭く見定め、ある者は冷静に静観する。
幾多の火花が散っていった。高らかな風の音が生まれていた。薄光が、周囲の空間から切り離すように、その光景を包み込んでいた。

それはまるで童話の一頁のように。
荒ぶる牛の怪物と、小さな少年が、互いの命を燃やし、しのぎを削り合う。
エルナはゆっくりと目を細めた。


「『アルゴノゥト』……」


それは一つのお伽噺。
英雄になりたいと夢を持つただの青年が、牛人によってラビリンスへ連れ攫われた、とある国の王女を救いに向かう物語。
時には人に騙され、時には王に利用され、多くの者達の思惑に振り回される、滑稽な男の物語。
友人の知恵を借り、精霊から武器を授かって、なし崩しに王女を助け出してしまう、滑稽な、英雄の名前。


「あたし、あの童話、好きだったなぁ……」


エルナは両手を胸に抱き、宝物を見るかのように少年と牛人が戦う光景を眺めた。
静かに浮かぶ懐古の笑みが、少女の面影を残す彼女の顔を彩る。
水面に波紋を投じるように、呟きはその場にいた者達の耳朶を叩いた。

音響が弾け、白い影と赤銅の影はぶつかり合う。
多くの者が見守る中、物語の再来のごとき戦闘は白熱の一途をたどった。






体が軽かった。
頭が冴えていた。
想いが燃えていた。
視界を絶え間なく過ぎ去っていく大刃をくぐり、前へ。
浴びせられる雄叫びを自身の咆哮で相殺し、前へ。
勝利をもぎ取ろうと全身を奮い立たせて、前へ。
目の前の敵が、今の自分の全てだった。

初めて思った。
情けない妄想でもない。
カッコ悪い虚栄心でもない。
ただ夢を見ているだけの、不相応な願いでもない。
英雄になりたいって。
コイツを倒せる英雄になりたいって。
弱い自分だって奮い起こしてみせる、強い英雄みたいな男になりたいって、初めて心から思った。
僕は。
英雄に、なりたい。






「……っ!」


ガタッ、と。
フレイヤは椅子を飛ばし、その場で立ち上がった。
ベルとミノタウロスが激戦を繰り広げている同時刻。
宙に浮かぶ円形の“窓”の前で、フレイヤは立ったままその銀瞳を愕然と見開く。


「……まさか、本当に?」


『神の鏡』と呼ばれる、下界で行使の許された神の力がある。
本来は天界から下界を覗くための千里眼めいた一方通行の能力であるが、道楽のもと企画される“下界の催し”を、神達が楽しむために認められた唯一の特例であった。
勿論、“催し”以外の私的な流用は固く禁じられている。露見すれば即刻天界へ強制送還だ。
また『神の鏡』は各チャンネルパターンにおいて、特定の波動数が出て最寄りの神達にまず察知される。自滅する愚かな真似はどの神もしなかった。
だがこの美の神フレイヤは、己の美貌を使って周囲のおとこを“誑し込んでいた”。
「今日一日限り」、「どの【ファミリア】にも不利益を出さない」、「ダンジョンの一部分」、という契約のもと、リスクを承知で一本の抜け道を作り出していたのである。
全ては、この一戦を眼にするため。


「……ああっ!」


目の前で浮かぶ『鏡』を通して見える光景に、フレイヤは顔を驚愕から歓喜、恍惚へと移ろわせる。


「ふふっ、うふふふふっ……!? 見ている、オッタル? この美しい光景を……!」


光った。
ベルの魂が、輝かしいまでに。フレイヤの瞳を焼くほどに。
あれだけの輝きを放ちながら、まだその色は澄み切った透明色。
純粋な願望。
意図も打算もない、汚れも穢れも知らない、純然な意志。少年は何かを願ったのだ。
ベルの中で、“可能性”が芽吹いた。






戦いが続く。
ベルとミノタウロスは頻りに互いの立ち位置を入れ替えた。
四本の足が草原を踏み締め、駆け上げ、蹴り貫き、何度も何度も交錯していく。
絡み合う二つの動きは止まらない。


(図体に、騙されるな!)


眦をつり上げ、ベルは猛る意志を己の体に装填する。
ベルは既に恐怖とは無縁の位置にいた。
枷を砕き、呪縛から解き放たれたベルにはもう後退の文字はない。
怯むことなくミノタウロスの猛攻を防ぎ続け、隙を見つけては勇猛果敢に斬りかかる。


(ただでかいだけだ! よく見ろ、目を瞑るな!)


ベルは自分の双眸へと念じる。
ミノタウロスの怪力は確かに脅威だ。まともに受ければ致命傷は避けられず、掠っただけでも体の半壊は免れない。壊すことに特化した力はたった一撃のもとに敵を圧倒してのける。
だが、それだけだ。
一撃を食らう前提は前提を越えない。命中しなければ、大剣という必殺もただの粉飾に成り下がる。
ベルの視界は今までにないほどクリアだった。
その瞳を凝らし、ミノタウロスの表情から筋肉の動きまで鮮明に捉えている。
恐怖を拭い注視すれば、相手の巨躯はありあまる情報をベルに与えてくれた。常に全力全壊で回転し続ける敵の肉体は――凄まじいまでに怒張する筋肉の塊は、攻撃のタイミングから方向性まで何から何までベルに教えてくれる。
ミノタウロスの動きは愚直だった。雑だった。
ベルが容易に先読みできてしまうほど、“なっちゃいなかった”。


(コイツより“速い”相手と、何度も戦ってきたんだろう!)


自分が師事するあの妖精と比べれば、目の前の相手は、ただの動く木偶だ。
冒険者の武器を装備してのけるその特殊性も、あくまで大剣を“使える”ようになった、それだけのこと。
この程度では、あのエルフの戦士には遠く及ばない。

ミノタウロスの攻撃は当たらない。当たらせない。
筒抜けの一撃必殺はことごとく空を切り、見え透いた軌道はその漆黒のナイフで叩き落とす。
ベルは速度という己の十八番を最大限に稼働させ、ミノタウロスの攻撃を往なし、防ぎ続けていった。


「……さっきから何なんだ、あのナイフは? 自分てめぇよりずっとでけえ大剣を弾いてやがんぞ?」

「いや、武器の性能もそうだが……」

「上手い。技でミノタウロスの攻撃を捌いてるよ」


紫紺の輝きが瞬き、大剣を打ち払う。
その光景を外から見つめるベートの疑問に、リヴェリアとフィンが答えた。
使用者の【ステイタス】によって能力を上昇させる《ヘスティア・ナイフ》と言えど、二メドルにも及ぶ大剣が相手では真っ向から太刀打ちできない。際立ったミノタウロスの膂力もあって、まず力負けする。
ベルは向かってくる大剣に対し、その側面を狙っていた。
最小限の軌道をずらし、僅かに生じた空隙へ体をねじ込んでいる。少しの手元の狂いも許されない、紙一重の防御だ。


「本当によく凌いでる。でも……」

「攻めきれないっ」


瞳を鋭く細めるエルマと、落ち着きなく体を揺らすエルナの視線の先、剣撃を右手の《ヘスティア・ナイフ》で迎撃したベルは左手の《バゼラード》で反撃を試みるも、弾かれる。
短剣はミノタウロスの体を浅く斬りつけるものの、ダメージといえる傷に至っていないのは明白だった。精々かすり傷がいい所だ。
ミノタウロスは荒い鼻息を出して、すぐさまベルを懐から追い払う。


「……ミノタウロスの肉は、断ちにくい」


幾千幾万というモンスターを斬ってきた【剣姫】の、ミノタウロスに対する確かな評価。
その隆々とした肉質は飾りではない。筋肉の束はその強度もさることながら、過剰なまでに重なり合うことで、あたかも分厚いゴムを切っているかのような感覚を相手に預けてくる。
更に、耐久力の充実しているドロップアイテムとして評判の高い体皮と組み合わさることで、ミノタウロスの守りは半端な攻撃では崩せない構造となっている。皮それ自体は耐熱耐寒効果を持つことでも重宝されていた。
中層域のモンスターの中でも群を抜いて特化したその力と耐久力が、多くの冒険者達にモンスターの代表格として覚えられる所以でもあるのだ。


「ヴゥムゥウウウウウンッ!」

「づっ!」


攻守一体を体現するミノタウロスに、少しずつではあるが、ベルは劣勢に立たされつつあった。
もとよりLv.1にカテゴライズされるミノタウロスとLv.0のベルの間には、埋め合わせることのできない能力の開きがある。
それはミノタウロスの揺るがないアドバンテージ。ベルにとっては絶望的なまでの“基礎”の差。
生まれ持った怪物の能力ステイタスは、にわか仕込みの技術を高圧的にねじ伏せてしまう。


「ベル様っ……」


ある程度回復の兆しを見せ、リヴェリアから下ろしてもらったリリが絞り出すようにベルの名を呼ぶ。
彼女が見守る中、ベルはもらえば一溜りもない剛剣を地面へ転がって躱す。すかさずミノタウロスが蹄で踏み潰そうとしてくるが、持ち前の速さで緊急脱出し《ヘスティア・ナイフ》を一閃。
咄嗟に大剣で防がれる。鋭い金属音。


「……!」

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」


《ヘスティア・ナイフ》を異常なまでに警戒するミノタウロスに、ベルは焦燥を隠せない。
間違いなくこのモンスターは、《ヘスティア・ナイフ》が自分に有効打を与えうるベル唯一の武器だと勘付いている。
同時に、ベルの方も感じ取っていた。
敵は、このミノタウロスは、こちらが本格的にナイフで攻勢に転じようとしたその瞬間、防御を捨てて潰しにくると。
肉を切らせて骨を断つ。相手はそれを心得ている。
双眼の奥に宿る理性の光と、何より不自然にへし折られている片方の角を見て、ベルは直感していた。


「こん、のッッ!」


間合いが若干開いて仕切り直し。
ベルはこなくそとばかりに勢いよく右手を突き出した。
ミノタウロスはその両眼を大きく見開く。


「【ファイアボルト】!」


炎雷が轟いた。
爆砕音とともにその巨大な体が後退を余儀なくされる。
ダンジョンの天井にも届く叫喚が、緋炎の向こうから発せられた。


「……詠唱、してる? あの魔法?」

「いや……小声で口ずさんでいるようにも見えねえ」


Lv.0のベルがLv.1のミノタウロスと戦闘が成り立っているのは、魔法の恩恵に依るところも大きかった。
身体能力では完璧に劣っている中、あわやという場面で追い込まれても『速攻魔法』が絶体絶命の危機を何とか退けている。
しかし、


「ブモォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

「……っ!」


通らない。


「軽い」

「ああ、決定打には届かない」

「あの行使速度には目を見張るものがあるけど、相手が悪い。対人には凄い効果を発揮しそうなんだけど……」


【ファイアボルト】の弊害がここに現れていた。
威力が低い。
二メドルを越えるミノタウロスの体は傷付いてはいる。炎雷によって焼け焦げた胴体は、しかしそれだけだ。深手にはほど遠い。
一般的な攻撃魔法ならばいざ知らず、【ファイアボルト】の場合は必殺に足りえなかった。
火力が、未熟すぎた。


「手詰まりか」

「決めつけるにはまだ早い……と言いたいところだけど」


猛然と襲いかかってくるミノタウロスにベルは再び防戦を課せられる。
攻められる時間が徐々に長くなっているベルの旗色を、リヴェリアとフィンはいっそ冷徹なまでに観察していた。
どんなにベルがミノタウロスと張り合い奮戦しても、攻撃が成立しないことには勝機は絶対に訪れない。
もはや残されているのは玉砕覚悟の特攻くらいなものだ。
そしてその戦術が敢行されてしまった瞬間、ミノタウロスの勝ちが九分九厘決定してしまう。
攻撃の無機能。いかなる戦局においても、それは致命的と言えた。
ミノタウロスが咆哮する。
大剣によるフルパワーの振り下ろしが、逃げ遅れた《バゼラード》の刃を真っ二つに叩き折った。
ベルの顔が硬直する。


「彼には、武器がない」


フィンの言葉が風に乗った。
爆撃めいた一撃が地中を掘り返し、小規模のクレーターを作り上げる。
破壊された短剣を持った左腕で顔を覆うベルは、衝撃波に踊らされながら空中を泳ぐ。
短い滞空時間を経て地面に着地した、次の瞬間。


――“武器”ならっ、ここにあるだろうっ!!)


“ミノタウロスの大剣”を睨みつけ、顔を覆っていた――振りかぶった短剣の残骸を、全力で投擲した。


「ヴムヌッ!?」


一直線に撃ち出された短剣がミノタウロスを奇襲する。
刃を半分から失った《バゼラード》がその瞳に映り、歪な剣身の断面が鋭利に光る。
顔面に突き進んでくる銀の矢に対し、ミノタウロスは小賢しいとばかりに首を振るった。
頭の片角があっけなく短剣を弾き返す。
一方で、ベルは。
その光景を見届けるまでもなく、既にスタートを切っていった。


――!?」

「はああああああああああああああああっ!」


迎撃に手間取ったミノタウロスの対処が遅れる。
体を捻り刺突を繰り出そうとするのは右手、《ヘスティア・ナイフ》。
“調教”されたモンスターは目の色を変え、今はまだベルの半身に隠れている右手の一撃を防御しようとする。
地面を抉っていた大剣を無理矢理に引き戻し、刃の腹を盾のように構えた。


(かかったッ!)


ミノタウロスの驚愕のほどは、いっぱいに見開かれたその双眼が如実に表していた。
ベルの体に隠れ、今まさに放たれようとしている刀身の色は、漆黒ではなかった。
白刃。ただの《短刀》。
神のナイフは、《バゼラード》を投じた次には忍ばせておいた左手の中だ。
腕の影から紫紺の輝きが溢れ出す。
少年の瞳が鋭く射抜く方向、ベルの狙いは、その大剣。


「ふッッ!!」

「グヴゥ!?」


《ヘスティア・ナイフ》を逆手に持った左手が翻り、大剣の柄を握るミノタウロスの右手に叩き込まれる。
不安定な体勢のまま、敵の刺突だけを警戒し構えられた大剣本体は、あまりにも無防備だった。
グズリ、と漆黒の刃が右手首に埋まり、骨も、筋組織も断絶する。
ミノタウロスの苦悶の鳴き声が散る最中、ベルは一思いに刃を捻り、ありったけの力で大剣ごと右手を空へと飛ばした。
血飛沫が一気に舞い、遠くでフィン達が目を見張る。


「ゴ、ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!?」


ミノタウロスが天井へ仰け反る。
間近で爆発する絶叫にも関わらず、ベルは膝を溜め、その場で跳んだ。
相手の巨体を梯子に見立てるかのように、膨れ上がった肩へ足をかけて蹴り飛ばす。中空へと飛翔した。
ぐぐっとその白い細腕を懸命に伸ばす先には、血塗れた大剣。
フォンッ、フォンッ、と空中で円を描く長大な剣の柄に指をかすめて、次には――掴み取る。
間を置かず、フロアへ落下。


「ヴッ、ヴガォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


切り裂かれた手首に悶え苦しむミノタウロスは反転し、後方に降り立ったベルへ飛びかかる。
ソレを返せと言わんばかりに筋肉で編まれた左剛腕を伸ばし、大剣を奪回しようとする。
ミノタウロスに背を向けるベルは、左手に剣の柄をあてがったまま、ゆっくりと振り返った。
右腕を静かに突き出し、一声。


「【ファイアボルト】」


大爆発。


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ォ、ッォォ!?」


至近距離からの射撃に、ミノタウロスの体が浮く。
今までがそうであったように炎雷の速度と爆圧に押され、空足を踏みながら後ろへ下がらせられた。
炎の矛が直撃した胴体から体皮が焼け落ち、そして爆炎が大気中にのさばる。黒い煙とともに、地面の草原にも緋色の火が燃え移っていく。
間髪入れず。
視界を塞ぐ爆炎の中から、黒煙を突き破ったベルが、大剣を両手に斬りかかった。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」


大上段から振り下ろされた、渾身の一撃。


「ブグゥッッ!?」


鋼を彷彿させる強靭な肉体に、太い赤線が走った。


「入ったぁっ!?」


斜に刻み込まれた傷痕から血が飛び散り地面を斑模様に彩る。
エルナの口から驚愕の歓声が漏れ、ミノタウロスはぐらりと後方によろめいた。
ベルはこの好機を逃さない。


「んのぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

「ヴオォォッ!?」


相手の手へ渡った武器がミノタウロスへ牙を剥く。
肉厚の刃が風を巻き込んで、ベルの手を散々焼かせた破壊力を解放させた。
立て続けに迸る強撃。
大規格の得物が休むことなく駆け続ける。


「うわっ、下っ手くそ……!?」

「でも、押してるわ」


お世辞にもベルの大剣捌きは格好のいいとは言えなかった。
大剣を振るうのではなく、むしろ大剣に振り回されているような絵。細い体が大重量の銀塊に外見負けしてしまっている。
しかし、怒涛のごとき勢いはミノタウロスを圧倒する。
まるで風の渦だ。剣が縦横無尽に走り抜け、ベルの咆哮を道連れに銀の大閃を見舞っていく。
狂牛のモンスターは動揺していた。瞬間的に逆転したこの戦況に置いてけぼりにされ、防衛行動を上手く働けない。立ちつくす体が破竹の進撃にじりじりと押され、連続の被斬。
散り散りと血の欠片が飛ぶ光景の中、ミノタウロスの体が裂傷まみれになっていく。
それまで与えられなかった傷が、ダメージが、確実に蓄積されていった。


「ゥ――ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!?」


怯んでいたミノタウロスが、吠えた。
調子に乗るなと全身を怒らせ獣の本能を取り戻す。
地面に打ち込んだ踵がそれ以上の後退を許さず、負けじとばかりにベルを押し返した。


――――――――――――――ァッッッ!!』


決戦する。
もつれ合う気勢と気迫が空気をわななかせた。既に意味をなさない互いの轟声がダンジョンに満ち満ちる。
モンスターの剛拳に応えるようにヒューマンが巨剣を振るった。人の技剣に真っ向から対決するように怪力が尽くされた。
妥協を彼方に放り投げたぶつかり合い。凄烈な一進一退を繰り返す。加速が、止まらない。
不格好に放たれた前蹴りを大剣が打ち落とす。
防御に構えられた剣の上から殴撃が敵の額を割る。
振り上げられた斬撃が相手の骨を砕き、肉を裂く。
蹄型に陥没する地面、剣圧で一線に切り裂かれる草花、激突の猛威に千切られる空からの燐光。舞台装置が静かに壊れていく。
なけなしの力を振り絞る雄と雄は決して止まろうとしなかった。決して手を休めようとしなかった。
止まらない、止まれない、譲れない。
血塗れた銀剣とひび割れた蹄が、火花を打って、もう一度ぶつかり合う。
闘いの終結が間近に迫っていることは、誰の目から見ても明らかだった。


「うあああああああああああああああああっ!」

「ヴゴォッ!?」


ベルの全身を利用して放たれた回転斬りがミノタウロスの横っ腹に決まる。
肉の鎧と化している腹横筋の表層を半ばまで斬り裂き、刃は止まった。そこからは一気に弾くように大剣が振り抜かれ、ミノタウロスは横合いに吹き飛ばされる。
ビキリ、という大剣の小さな呻きが、激痛に歪む悲鳴にかき消された。


「フゥーッ、フゥーッ……!? ンヴゥウウウウウウオオオオオオオオオオオオッ!!」


離れた彼我の間合い、およそ五メドル。
出血する胴を一頻り押さえた後、ミノタウロスは目を真っ赤に染め、両手を地面に振り下ろした。
原型の無くなった両手が地面を“踏み締め”、頭は低く構えられる。臀部の位置は高く保たれ四つん這いになるその姿は、まさに猛牛のそれだ。
ベート達は目を剥いた。
追い込まれたミノタウロスに度々見られる突撃体勢。己の最大のぶきを用いる言わば切り札。
進行上の障害物を全て粉砕してのける強力無比なラッシュだ。
ただし、この距離では助走が足りない。短い間隔では威力も半減する。
なりふり構っていられないほどミノタウロスが瀬戸際まで追い詰められた、何よりの証左。


「「――――――』」


最後の矜持によって残されていた片角が、ベルの見張られた瞳をギラリと焼いた。
眼球の奥底に届く視線の矛。無言の疎通。溶け合う意志と意志。
呼吸を止めたかのように、一瞬、周囲の空気が限界まで張り詰めた。
ベルの眼差しと、ミノタウロスの眼光がかち合う。
そして、


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
「ヴヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」


突っ込んだ。


――若い)


真っ向からの突撃を断行したベルに、リヴェリアは目を細める。


「馬鹿がッ!」

「駄目です、ベル様ぁ!?」


青い感情を非難するベートの罵声と、張り裂けるようなリリの悲鳴。
響き渡る声さえも突撃風景の加速剤へと変わり果て、ベルとミノタウロスの耳には疾風の音が渦巻く。
一気に縮まる間合い。瞳の中で大きくなる互いの姿。肌を打つ猛々しい覇気。
大剣が右肩に振り上げられ、一角が巻くように右肩へ溜められる。
振り下ろしと、すくい上げ。
寸分狂わず同時に発進する。
瞬く間に、決着の一撃が邂逅した。


――


銀塊が砕ける音。
大剣に食い込んだミノタウロスの角が、そのまま突き進み、果てに、刃をへし折った。


「ヴヴッ――!」


“武器は摩耗する”。
遠征中、いずれ武器が使い物にならなくなるように。
碌に整備の受けられなかった剣は、摩耗する。
ダンジョンに閉じ込められること一週間。オッタル、そしてミノタウロスという力自慢に振り回され続け、著しく強度を下げていた銀の大剣は、ついに限界を迎えた。
根元の辺りを粉々に破砕され、その上からの剣身が明後日の方向に飛ぶ。
ミノタウロスの角は、傷一つついていない。

細かい銀の雨がベルの視界を飛散していく。
右袈裟に振り下ろされた刃のない大剣は、虚しく空を切った。
左上方に振り上げられた片角も剣を仕留めるにとどまり、ベルとミノタウロスは綺麗にお互いの脇をすり抜ける。
ベルの瞳に映った、口端を裂くミノタウロスの相貌。
敗者に送りつける嘲笑ではない。勝利に飢えた者の剛毅な笑み。
切り札を失った相手に対し、ミノタウロスは確実な勝機を見出していた。
白い前髪が、静かに瞳を覆う。
時間がスローモーションになり、ゆっくりとミノタウロスが視界の外へと消えていく中。


(切り札は――


ベルは、


――こっちだッッ!!)


漆黒のナイフを抜いた。


「ッッ!」


急激な超ブレーキ。
すれ違ったミノタウロスのすぐ後方で突貫の勢いを殺してのける。
最大酷使される膝からの悲鳴を無視し、回転。
互いの位置は密着に届こうかという背中合わせ。限界突破した『敏捷』アビリティが、ベルに突撃からの第二撃を繋げさせる。
左逆手に装備された《ヘスティア・ナイフ》が、大気の上を滑り抜け燦然と輝いた。
角を上方へ振り上げた体勢で足を止めたミノタウロス目がけ、迫撃する。


「シッッ!!」

「ヴオッ!?」


巨躯の右脇下に叩き込まれた《ヘスティア・ナイフ》は天然の鎧を貫通した。
遠心力が上乗せされた最大威力。まさかの不意打ちにミノタウロスの姿勢が揺らぎ、横にぐらりと流れる。
そして、ベルは敵の体内に届いた黒刃をぐっと押し込み、ありったけの力を込めて――“砲声”した。


「ファイアボルト!」


ドゴンッ、とミノタウロスの全身が振り乱れる。
体内で何かが“爆発”したかのように、肉厚の胸板が膨張した。
ナイフに貫かれている傷口から火炎の息吹ががばっと溢れ出し、ミノタウロスの血走った瞳が限界まで見開かれる。


「ファイアボルトォッ!」


更に肥大。
奇天烈なまでに、ミノタウロスの上半身が風船のごとく膨れ上がる。
体皮の上ならば魔法を無効化するさしもの肉体と言えど、“体内”では防ぐ術などありはしない。
刃伝いに送り込まれた炎雷が体の中で暴れ狂い、ミノタウロスを直に焼き焦がす。
行き場の無くなった火炎流は出口を求め、一気に喉内を駈け上がり。
ゴオウッ、と鼻腔と口腔から緋色の炎が勢いよく噴出した。


「ガハッ、ゲッハッ……!? グッ……グヴォオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ッ!?」


喉を焼かれながらもミノタウロスは咆哮し、振り上げた巨腕を張り付いているベルへ落下させた。
超膂力から繰り出された肘鉄。
寸分の疑いもなくベルの体を無残な肉塊へと変える極鉄槌。
死が、一秒後に迫る。
そして猛落下するハンマーが頭皮に触れる、その僅差。
ベルの方が、速かった。




「ファイアボルトォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」




爆散。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――ッッ!?』


凄まじい断末魔が炸裂し、ミノタウロスの上半身は粉々に弾け飛んだ。
体内で圧縮されていた熱塊は爆ぜ、炎の轟華が咲く。
ダンジョン天井にまで緋炎と煙が立ち昇る。見る者に火山の噴火を連想させる光景の中、かろうじて原型を留めた下半身がぐらりと崩れ落ちた。

降りしきる血と肉の雨。
千々に漂う黒焦げたそれらを、火炎の霧が彩る。
音をたてて狂牛の破片が地面に転がっていくそんな最中。
空高く舞い上がり、その身を回転させていた巨大な魔石が、ザンッと地面に突き立った。






「勝ち、やがった……」


呆然と、ベートは呟いた。
信じられないものを見るかのように、視線の先でたたずむベルを見つめる。
こちら側を向く背中から喚起される自己への問い。
自分がミノタウロスを圧倒できるようになったのは、いつの頃だった?
いや、自分一人であのモンスターを倒せるようになるまで、どれほどの時間がかかった?
そう考えた矢先、ベートの顔と体が煮えたぎる。
腹の中心から沸き起こるどうしようもない苛立ちと、羞恥が、全身の隅々まで行き渡った。


「……精神枯渇マインドゼロ

「た、立ったまま気絶しちゃってる……」


《ヘスティア・ナイフ》を振り抜いた体勢でぴくりとも身動ぎしないベルに、エルマとエルナの姉妹も唖然と呟きをこぼした。
文字通り力を絞り尽くした少年の姿に、ともすれば畏怖を覚える。
まるで物語のワンシーンを切り抜いたかのように、冒険者は一体の彫刻と化していた。


「っ……! 質問に答えろ、パルゥム! あのガキは一体っ……!」

「ベル様……ベル様ぁっ!」

「おい!? ……ちッ!」


覚束ない足取りで駆け出していったリリにベートは舌打ちをする。
説明できない情動に苛まれながら苦虫を噛み潰していると、その光景が目に飛び込んできた。
防具を剥がされたベルの背中。ボロボロになった黒のインナーは破れ落ちる寸前で、肩甲骨辺りで綱のように残っている生地によって何とか繋ぎ止められている状態だ。
そして所々に穴の空いたその薄布の下、夥しく刻まれている【神聖文字ヒエログリフ】が姿をちらつかせていた。


――! リヴェリアッ、あいつの【ステイタス】を教えろ!」

「……私に盗み見をしろというのか、お前は」


ベルの素肌が露出されているのは背中の上半分だけだった。
下部の方に記されている魔法やスキルのスロットは窺えず、千切れかかっている生地が邪魔をして目の届かないアビリティ欄もいくつかある。


「あんな堂々と晒しておいて盗み見になるかよ! あれをこのまま放置しておけば、お前が見なくたって他の奴等が目にするだろうぜ!」


ただ視界に入っただけ、違反をするわけではないと、ベートは声を荒げて【ヒエログリフ】を解読できるリヴェリアに詰め寄った。
博識のエルフは嘆息しながら、それでもやはり興味があるのか、すっとベルの背に視線を走らせる。
翡翠色の瞳が黒い文字群を追っていく。


「おい、まだかよっ」

「待て、もうすぐ読み終わ――


リヴェリアはそこで中途半端に言葉を切った。
ベートは顔を訝しげにし、聞き耳を立てているエルナ達も不思議そうに彼女を見る。
すぐしないうちに、鈴を転がしたような笑声が彼女の口から漏れ始めた。


「……くっ、ふふ、はははっ」

「何なんだよ、オイ!? ったくっ、アイズ、お前もちっとは【ヒエログリフ】が読めんだろ! 何かわからないのかよ!」


心底おかしそうに肩を揺らすリヴェリアにベートは悪態をつき、問答の先をアイズへと向けた。
直立不動を続ける彼女は、少年以外何も見えていないかのように視線をその背にそそいでいる。
金の双眸は剣のように、鋭く構えられていた。


「……S」

「……はっ?」

「全アビリティ、オールS」

『オールS!?』


ベートとエルナ達が驚愕の声を揃える。今度こそ、言葉を失った。
実際の所、『魔力』を始めとしたアビリティ欄はインナーの影に隠れて判然としないのだが、どちらにせよ似たようなものだとアイズは解釈していた。
彼女は一つの事実を告げていない。
今もリヴェリアの喉をくすぐっている、SS――アビリティの“限界突破”という、目を疑う現実を。


「名前は?」


響く。
沈黙を破る静かな声が。
その声の出所に、アイズ以外の視線が集中する。
いくつもの瞳が見下ろす所、フィンが、ポンポンと長槍の柄で自分の肩を叩いていた。
冷静沈着にヒューマンの冒険者を見つめていた目は、くいっとベート達へ持ち上げられる。真剣な眼差しが、少年の名前を求めていた。


「彼の名前は?」

「し、知らねぇ……。聞いていない……」

「……リヴェリア。いつまでも笑っていないでくれ」

「ふふっ……ああ、すまない。それで、何だったか?」

「彼の【ステイタス】を読み取ってくれ。彼の真名を、だ」

「ああ、そうだったな。待っててくれ……」


【ステイタス】は神と恩恵を授かった者の関係を示す契約書のようなものだ。
恩恵を機能させるためにも主神の名を表す象徴シンボルと、その対象者の名前が必ず刻み込まれている。
リヴェリアは記されている名を読み取ろうと目を細める、が、彼女の口が開くより先に。
アイズがその名前を唇に乗せた。


「ベル」

「アイズ……」


静かな声音が辺りに通った。
依然その姿勢は変わらないまま。
エルナの声にも振り向かず、アイズは真っ直ぐ少年のもとへ意識を馳せる。


「ベル・クラネル」


路傍の石ではない、はっきりとした少年の姿が、その金色の瞳の中に映し出されていた。











所要期間、約一ヶ月。
モンスター撃破スコア、3001体。
Lv.1到達記録を大幅に塗り替えた、世界最速兎レコードホルダー誕生の、三日前のことだった。

――――この日より、時代は動く。



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