2023.12.28
祖父の顔を。
お祖父ちゃんの顔を、見たくなった。
両親のいなかった僕の、名実ともに育ての親。
皺だらけの顔をいつもくちゃくちゃにして笑っていて、「可愛い女の子を助けて仲良くなりたいよなー」とか、「美女美少女侍らすのはロマンだよなー」とか、「スケコマシでもいいじゃない」とか、「あっでもヤンデレだけは勘弁な?」とか、たまによくわからないことを言っていたけど、とにかく愉快な人だった。
祖父はまるで自分の目で見てきたかのように英雄達の逸話を知っていて、よく僕に聞かせてくれた。
誕生日にくれる絵本が祖父の直筆だったことを知ったのは、あの人が亡くなってから随分あとのことだ。
アイツ等すげえよなぁ、自分より強い奴に一人でも立ち向かえるんだぜぇ、儂には絶対無理じゃぁ。
自分はあんな真似できないと口にしながら、祖父はいつも嬉しそうに英雄達を称えていた。
でも、英雄みたいなことはできないなんて、それは嘘だ。
祖父はカッコ良かった。
幼い僕がゴブリンに殺されかけた時、あの人は誰よりも速く、あたかも雷霆のように駆けつけてきてくれて、両手に持った鍬をモンスター達へ叩きこんでいった。
いつも外衣に隠れていた体は戦士のようにたくましかった。
丸太のような腕はモンスター達を寄せつけることはなかった。
大きな大きな手は、僕の小さな体を抱き上げてくれた。
今、思えば。
僕が初めて憧れた英雄は、お祖父ちゃんだった。
やばい時は逃げろ。
怖かったら逃げろ。
死にそうだったら助けを求めろ。
女の人がキレそうだったらすぐ謝れ。
馬鹿にされたって指をさされたって、それは恥ずかしいことなんかじゃない。
一番恥ずかしいことは、何も決められず動けないでいることだ。
いつもそう言っていた祖父。
目の前からいなくなってしまった後も、その教えだけはずっと心の側に残し、僕に一大決心をさせてくれたお祖父ちゃん。
オラリオに送り出してくれた、あの人の言葉。
お祖父ちゃんの顔が、見たくなった。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
お祖父ちゃん。
今の僕は、動けない。
「……ぅ、ぁ」
顔を振り上げて、口から漏れ出た大粒の唾液を飛ばすミノタウロス。
遥か視線の先にいるモンスターは、自分という存在を誇示するかのように大剣を携え、吠声をあげている。
まるでそれ自体が重鎧のような体躯に、深い損傷は見られない。傷はあくまで表面的なもの。
魔法が通用しないという現実の前に、無力感が全身を支配していく。
勝てない、という言葉が頭の裏を何度も反響していた。
力が、入らない。
せっかく立ち上がった膝が、今にも折れてしまいそうだった。
「フゥゥ……!」
「……っ!?」
差し向けられた視線の切っ先が、首筋をぞくっとさせる。
誘発された冷たい電流が再び恐怖を呼びさまし、その代わりに、こみ上げていた脱力感を一斉に追い払った。
僕の意識とは別に、本能が死から遠ざかろうともがき始める。
このまま突っ立っていたら、殺される。
僕も、リリも切り殺される。
動かなきゃ……!
僕はあらん限りに手を握り締めた。
「ノヴゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!」
――壁際は不味い!
迫りくるミノタウロスを見て、僕はすぐにその場を離れた。
壁を背にしていればあの巨体によってあっという間に逃げ道を塞がれてしまう。
リリのいる場所とは逆方向に駆け出し、僕は広いフィールドへ戻るのを最優先させた。
こちら目がけてまっしぐらに進んでいたミノタウロスは、僕の移動とともにぐぐっと急カーブを描き、ドゴンッドゴンッドゴンッと床を踏み抜きながら追尾してくる。
側面からの急迫。震える瞳の中で、凶悪な牛面が大きくなる――!
「ヴムゥンッ!」
「――ぐっっ!?」
ミノタウロスが地を蹴った。
振り下ろされた大剣の一撃を、僕もまた地を蹴り込んで宙に身を投げる。
横合いからの攻撃に対し、前方に頭から飛び込む形で跳躍、回避。
間を置かず首のすぐ後ろで爆砕音が鳴り響き、戦慄しながらも地面の上をごろっと前転して立ち上がった。
急いでターン、そしてバックステップ。
眼前にできあがっている地割れに汗をぶわっと噴き出させ、こちらを睥睨してくるミノタウロスから必死に距離を取る。
「ヌヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
強靭な下腿が床に踏み込んだ瞬間、一気に間合いをゼロにされた。
瞳を見開く僕の前で、両手に持った大鉄塊がフルスイングされる。
頭が真っ赤に染まった。
風の悲鳴に促されるまま僕は全力で膝をたたんで、間一髪、その必殺をやり過ごす。
上半身があったところを大剣が凄まじい勢いで通過し、頭髪を何本か持っていかれた。
「ヴォオッ!!」
「うっ!?」
真っ白な白髪が空中に散る中、ミノタウロスが屈み込んだ僕へ剣を叩きつけてくる。弾かれるように横へ転がった。轟音。
濁流のような猛攻が始まった。
大力をもって振り回される血塗れの銀剣が大気を唸らせ、抉りとる。長いリーチを誇る剣撃は僕をどこまでも追跡し逃さない。時折おり交ぜられる拳打や蹴りが体のすぐ側を舐める度に、寿命が削り落とされていく思いをした。
呼吸が、動悸が焦げている。
強要される際どい回避の連続、一歩間違えればすかさず死に繋がる状況が僕の思考を狭めていく。
頭の打ち鳴らす警鐘が治まらない。
鼓膜が、壊れてしまう。
「っ!? ……ッ!?」
気が付けば僕は擦り傷だらけになっていた。ミノタウロスの攻撃を無我夢中で避け続け、床を転げ回った代償だ。
余裕なんてない。ある筈がない。満身創痍に一歩踏み込んでいる。
もし、このまま攻撃が続けば――。
あやふやだった未来のイメージが現実味を帯びて僕の頭の中をちらつく。一瞬過った真っ赤な末路。
このままではジリ貧だ。生き永らえることはできても、死ぬことは避けられない。
逃げる。
逃げろ、逃げなくちゃ!
逃げ出さなきゃ、助かりっこないっ!?
「ベル、様ぁ……!」
視界の隅で小さな山が身動ぎした。
リリだ。ぐらつく体を支えて立ち上がり、霞んだ視線を僕の方にさまよわせている。出血は止まっていない。
僕は余裕のない表情で叫んだ。
「リリ、逃げて!」
悲鳴に近い声に小柄な体が震える。
薙ぎ払われる剣を躱しながら僕は必死になって訴えた。
でも、リリは動かない。立ちつくしたまま、泣きそうな目でこっちを見てる。
かあっっ、と頭に血が上った。
「にげてっ……逃げろよっ!!」
リリは泣きながら頭をぶんぶんっと振った。意識が定かではないのか、子供の我儘みたいに言うことを聞かない。
何でだよっ!?
リリがいたら逃げられないだろう!?
リリがここを離れたら、僕だって逃げられるんだよ!!
わかるでしょうっ? わからないのっ? お願いだからわかれよ!
「早くッ、いけぇええええええええええええええ!!」
怒鳴り声がリリを突き飛ばした。
とめどなく涙を溢れさせながら、リリは顔をくしゃっと歪めて僕に背を向ける。
その場から駆け出し、たったったっという足音とともに通路の奥に消えていった。
これで僕も逃げられる!
やっと僕も、逃げ出せる!
逃げ、出せるっ……
(……わけっ、ねーだろっ……!?)
今僕が逃げたら、誰がコイツを押さえ込むんだ。
コイツをこのルームから出したら、今行かせてしまったら、リリが死ぬ。
この牛の化物がリリに狙いを定めたら、リリがっ、リリは……っ!
「……畜生ッ!!」
プロテクターに右腕を突っ込み、《バゼラード》を抜剣。右に回ろうとする足を殴り飛ばしてミノタウロスと対峙する。
泣きたいのか怒りたいのかわからない。体の中で絡み合う感情の束は既にぐちゃぐちゃだ。
もはやヤケクソの境地に片足を突っ込みながら、僕はミノタウロスと一方的な戦闘を続行させる。
「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
「ッッ!?」
繰り出される左ストレートを《バゼラード》で横に叩く。
右手を衝撃で痺れさせながら、向かってくる大剣を回避。短剣ではあの得物は弾けない。
すぐに後退。詰められる。
盛大に歪めた僕の双眸と、ミノタウロスの鋭い両眼が交差する。
「ルヴッ、ヴゥゥッ、ウウウッ!」
「ぐ、ぅぅぅっ!」
命綱の防具もないまま死地の中に身を置き続ける。大剣が地面を揺るがす都度、砕かれた鋭い石片群が、青白くなっている肌と黒いインナーをボロボロに傷付けていった。
ミノタウロスの呼吸が荒い。捕まらない僕に業を煮やしているのか。
僕の呼吸は言うまでもない。大粒の汗が何度も頬を伝う。喉の渇きが最高潮に達しようとしていた。
ミノタウロスから発散される力の余波が再三にわたって草原をざわめかせる。ダンジョンの中の音という音が全て僕達の攻防から生まれていた。
天井一面に灯っている燐光に見下ろされながら、茫漠としたルームを二つの影が動き回っていく。
「フウッ……ゴォオオオオオオオオオオッ!!」
ミノタウロスが怒号をあげる。まるで「逃げるな」と一喝されているようだった。
ありったけの勇気を総動員して短剣での防御を用い始めていた僕は、速度が――『敏捷』が何とかせり合えることに気付いていた。
でも、前に出れない。
耳のすぐ横を掠めていく破滅の風切り音が、体の熱を奪っていく。足をすくませる。僕の恐怖心を膨張させる。
前になんか出るな。
無様に下がり続けろ。
逃げ回って逃げ回って逃げ回って、時間を稼げればそれだけでいい。
この瞬間を切り抜けられれば、それで……!
それで、いいだろう……!?
「は、ぁっ!」
上がる息を野放しにして剛剣を回避。
もう何度目とも知れない死と隣り合わせの脱出劇に、心臓が圧搾される。風圧で頬が切られた。
わななきながら僕は走った。
剣を振り下ろした格好で前屈みになっているミノタウロスの側面に回り込もうとする。相手にとっての死角、つまり唯一の安全地帯だ。
そして僕がそこに足を踏み入れた瞬間、ミノタウロスの瞳が、鋭く光った。
「――」
フッ、フッ、と鼻息を断続させるミノタウロスは、地にめりこんだ大剣から視線を引き剥がすと一気に、自身の頭蓋を僕に向かって振るってきた。
「――なっ!?」
「ヴゥウウウウウウウウウウウウウウウウッ!」
無理な体勢から繰り出された横殴りの頭突き。
強張った牛頭に生えているのは――角!
湾曲した片角が、瞠目する僕を急襲する!
「うあっ!?」
「ンンンンンンッ!!」
無意味と知りながら構えたプロテクターを、ミノタウロスの角は呆気なく貫いた。
僥倖だったのは致命傷を免れたこと。すくい上げられるように打ち出された牛角は、プロテクターを貫通することで僅かに角度がずれ、僕の左腕を浅く切り裂いただけで済んだ。
けれど。
ミノタウロスの角は、プロテクターを引っかけたまま。
がっしりと固定された角に引っ張られるように、僕は左腕ごとミノタウロスの頭上に掲げられた。
「ひっ!?」
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
振り回される。
ミノタウロスが首を振るう度に、僕は振り子のように左右へ流れた。
ダンジョンの床から二メートル以上も離れた空中で体中をシェイクされる。地面が遠い。視界が、ままならない!
猛烈な勢いで揺さ振られこみ上げてくる吐き気。体を繋いでいる左腕が軋み、唸り、関節がイカれてしまう。
やがて二回、三回と、ミノタウロスが狂ったように首を振っていると、僕より先にプロテクターの方が限界を越えた。
既に半壊していた防具が繋ぎ目から千切れる。ミノタウロスの首が大きく斜め上に振るわれるのと同時に左腕が開放され、僕は、天高く放り出された。
「ぅ――ゎぁあああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
十メートル以上もある9階層の天井にぐっと近付いて、すぐに僕は落下運動に入った。
山なりの放物線を描いて、ダンジョンの床に引き寄せられる。
姿勢の制御もできないまま、天井があっという間に遠くなり――墜落。
「い゛っっ!?」
背中からまともに激突した。
背骨を起点に体中へ絶叫が走り抜ける。頭が、スパークする。
手足が不細工に痙攣した。
【ステイタス】の『耐久』補正がなかったら、とっくに死んでる……っ!?
「ぁ……!?」
目がちかちかする。
打ち寄せてくる痛みの波に呻き声が漏れ、僕は眉間に皺を寄せて両目をぎゅうっと瞑った。
やがて接着している地面を通して、ミノタウロスの足音が伝わってくる。
不味い、と思っても体が思うように動かない。喉が喘ぐように酸素を求めるだけだった。
そして身動きが取れなくなった途端、無理矢理封じ込めていた恐怖は簡単にぶり返した。
歯が、かち、かち、と鳴り始める。瞳が揺れて潤み始める。
怖い。
やっぱり、滅茶苦茶怖い。
苦しいし、痛いし、辛い。
でも、何よりも。
恐い。
もう、立ち上がれないくらいに。
「ゥゥ……!」
地響きが徐々に近付いてくるのがはっきりとわかり、身の毛がよだつ。ゆっくりとミノタウロスはこちらに迫ってきている。
こんなの生殺しだ。足先からじわじわと恐怖感に蝕まれていく。
発狂しそうになる。壊れそうになる。いっそそうなってしまえば楽なのかもしれない。
僕は眩いダンジョンの天井を見上げることしかできなかった。いくつもの燐光に目を焼かれて、涙腺が静かに砕け散りそうになる。
――もぅ、無理。
恐怖に雁字搦めにされる中、は、と湿った吐息が口から漏れた。
「…………?」
地響きが、止まった。
刻々と読み上げられていた死刑宣告が、不自然に途切れた。
代わりに鳴ったのは、そよ風。
怪訝に思った。何があったのかという、訪れた完全な静寂に対する純粋な疑問。
顔を歪めながら身じろぎする。
いまだ震えがおさまらない体を動かして、何とか首を持ち上げた。
すると、
「――」
あの人が、いた。
「……」
澄んだ黄金の長髪。蒼色の鎧。銀のサーベル。
いつかどこかで目にした光景と同じように、あの女剣士が、僕に背を向けて立っていた。
僕は時間を止めた。
「ゥ、ヴォオ……!?」
ミノタウロスが、怯えている。
何も喋らない彼女に見据えられ、じりじりと後ずさっていく。
風が鳴っていた。
一人の少女を取り巻くように気流が踊り、ルームを静謐に震撼させる。
研ぎ澄まされた威圧が、渦巻いていた。
――【剣姫】、アイズ・ヴァレンシュタイン。
「いたぁ! アイズゥー!?」
「ちッ、つまんねえことに振り回されてんじゃねえっての!」
続々と駆け付けてくる足音と声が耳に飛び込んでくるけど、僕の瞳と意識はその後ろ姿に縫い付けられたままだった。
目と鼻の先。
ヴァレンシュタインさんが、僕を庇うようにミノタウロスと対峙している。
頭が混乱する。状況に思考がついていけない。
何が起こっているのか。何が起ころうとしているのか。
吸い寄せられるように上体が起き上ったことに気付かないまま、僕は呆然と彼女の背中を見上げ続けた。
「……大丈夫?」
――大丈夫?
あの時と同じように。
細い横顔が小さく振り向いて、同じ言葉を告げた。
ズクン、と心臓が打ち震える。
「……頑張ったね」
――頑張っ、た?
あの時とは異なって。
労わりの言葉が、添えられる。
グシャッッ、と心臓が唸る。
「今、助けるから」
――たす、け?
心臓の音が、暴走する。
視界の中の光景に色が戻った。
灼熱の色が、灯った。
助ける?
助けられる?
また?
この人に?
同じように?
繰り返すように?
誰が?
――僕が。
「ッッッッ!!」
頭に火がついた。
それまでの感情という感情が一掃される。
馬鹿みたいに一途な気炎が、恐怖を上回った。
みじめな強がりが、とどまることを知らない想いの丈が、無様な体たらくを粉砕する。
立て。
立てっ。
立てよッ!
いつまで寝てれば、気が済むんだよッ!?
同じ時を繰り返すのは御免だ!
この人に助けられるだけの弱い自分なんて、絶対にっ、御免だ!!
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッ!!」
竦む体はどこかにいってろ。
怯える暇があったら覚悟を決めろ。
憧れの人の前でこれ以上醜態をさらしてどうする。
誰よりも想いを伝えたいこの人の前で、これ以上カッコ悪い姿を見せてどうする。
そんなこと、耐えられない、耐えられない、耐えられない!
ここで格好をつけないで、いつ格好をつけるんだ!
ここで見返さないで、いつ見返すっていうんだ!
ここで立ち上がらなくて、いつ立ち上がるっていうんだ!
ここで“高み”に手を伸ばさないで、いつ、届くっていうんだっ!!
僕の足は地面を蹴り飛ばした。
立ち上がり、再起した。
「!?」
「……じゃ、ないんだっ」
彼女の手を掴む。
力を入れれば折れてしまいそうなそのか細い手を取って、自分の背後に押しやる。
僕は、自分の意志で前に出た。
「アイズ・ヴァレンシュタインは、まだお呼びじゃないんだっ!」
腹の底から叫んで短刀を構える。
狂牛は再び現れた僕に目を見開き、そして確かに、獰猛に笑った。
こちらの意志に呼応するように大剣の刃を僕へと向ける。
「勝負だッ……!」
冒険を、しよう。
この譲れない想いのために。
僕は今日、初めて冒険をする。