2023.07.27
「くしゅん!」
シルは可愛らしいくしゃみを漏らした。
口元に手を当てた体勢で、やがてすぐさま赤くなる。きょろきょろと辺りを見回すと、店内で準備をしているスタッフ達がじっと彼女のことを見つめていた。
シルは頬を更に赤らめて、少し顔をうつむける。
「そんなくしゃみの一つや二つで恥ずかしがるんじゃないのニャ。シルはどこの箱入り娘ニャ」
「男なんていないんだから、もっと豪快にやっちゃえばいいじゃん。こう、『ドビュリャハッサンッ!』って」
「それはニャい」
「シル、風邪ですか?」
「う、ううん。平気、大丈夫だから」
頬を染めたままシルは苦笑いする。
ぱたぱたと振る両手に合わせ、お団子から垂れた一房の髪がゆらゆら揺れる。
「誰かがシルのことを噂でもしてるんじゃニャいか?」
「だったら答えは明白……ニュフフ、あの少年ニャ」
「クラネルさん、ですか?」
「……怒るよ、クロエ?」
ニヤリと笑みを向けてくるキャットピープルに、シルは少し眉を吊り上げた。
彼女の怒ったような顔に、クロエと呼ばれた少女は笑みを崩さないまま流し目を送る。
あまつさえ、テーブルを持ち運びながら、スカートから生えている尻尾を愉快愉快と言わんばかりに揺らしてみせた。
シルは溜息をつく。
「でもあの冒険者君、結局昨日は来なかったねー」
「いつもは空になったシルの愛情弁当を持って帰ってくるのにニャー」
「せっかくシルが早く店を上がって、少年を探しに行ったっていうのにニャー」
「探しには行ってませんっ!」
店内の準備のため、抱えたテーブルと一緒に移動する店員仲間から、四方八方の乱れ撃ち。
シルは店の中心で吠えるが、ゴキブリのように動き回る彼女達はニヤニヤと笑って懲りた様子も見せない。
「シル、大丈夫です。クラネルさんはシルの想いを等閑にする人ではない。きっと、昨日はたまたまダンジョンからの帰りが遅くなったのでしょう」
「リューもその言い方は少し違って……うん、もういいや」
諦めたように頭を垂れるシルをリューは不思議そうに見つめる。「勘違いなんだよ?」というシルの胸中を、生真面目な彼女はくみ取ることはできなかった。
ベルにあの賄い弁当を渡して以来、シルは手作りのランチを彼に渡すのが日課になっていた。理由はよくわからないが、周りに誘導されて何故かそういうことになっていたのだ。
普段ならば、迷宮で食べ終わった空の弁当をベルがその日の夜には返しに来るのだが、昨日はそれがなく、翌日の朝を迎えた今では店員達にからかわれる羽目になっている。
「ダンジョンでくたばった、なんてことはないのかニャ?」
「ちょっと、それ不謹慎! あの冒険者君がシルを置いていなくなっちゃうことなんてないって!」
「私もう、疲れちゃったよ……」
「シル、気を確かに。クラネルさんはきっと無事です」
「いや、リュー、そうじゃなくて……」
「リューの言う通りニャ。あの少年が死ぬ筈ないニャ。というか、死んでほしくないニャ。もし死んでしまったら、ミャーは胸が張り裂けるかもしれないニャ……」
ざわ、と喧騒がふくらんだ。
「まさか……」「クロエまで……」とそんな言葉が店内のあちこちからあがり始める。
シルは混乱を来たしたかのように「え、えっ?」と目を丸くして顔を左右に振った。
「少年はかけ替えのニャい存在ニャ……今となってはどこにもいニャい……」
「ク、クロエ? なに、言ってるの……?」
どこか上の空で言葉を紡ぐ同僚にシルは問いかけた。
クロエは宙に向けていた眼をシルへと転じ、彼女を真っ直ぐ見つめる。
「シル。ミャーはカミングアウトするニャ……」
「な、なにを?」
「ミャーは……少年のあの冒険者装備のハーフパンツルックに、興奮を覚えずにはいられないニャ……ッ!」
「……」
「あのつるりんとした膝頭がミャーの視界に入る度にっ、卑猥な劣情がミャーを焦がしてっ……! ミャーは、ミャーはッ…………フゥー、フゥー!」
「……」
「あ、ちょ……痛っ、ごめっ、ゆ、許しっ……ぁ!」
止めろ止めろ、とわらわら一ヵ所に群がり出すスタッフ一同。
こうして本日の『豊饒の女主人』の朝は、少し変わった形で始まるのだった。
「おい、馬鹿娘どもぉ! 遊んでないでさっさと働きなァ!」
ちっともはかどらない店の内装を見かね、女将のミアがカウンターの奥の扉から声を轟かせた。
一斉に肩を揺らした馬鹿娘どもは素早い動きで仕事に戻る。「ったく」と、顔をのぞかせるドワーフの彼女は肩をすくめてみせた。
「……ん? シル、それ何?」
「えっ?」
ヒューマンの店員ルノアが指を差す方向に、近くにいたシルは振り向いた。
そこはカウンターだ。あの時、シルがベルのために用意した店内の隅の特等席。
彼が腰を下ろしていた席の上に、一冊の本が置いてあった。
「これって……」
「誰かの落し物?」
「ニャんだニャんだ?」
「どうかしたのニャ?」
本を両手で持つシルの背後から覗きこむように、店員達がひょこひょこと顔を出す。
「ミャーは本を読むほど博識じゃないのニャ」
「右に同じニャ」
「うん、知ってるから。黙ってていいよ?」
「「ぶっ殺してえニャ」」
「シル、どうしたのですか?」
「ここに本が置いてあって……みんなのものじゃないみたいだし、お客様の忘れものかな……?」
「うーん? 昨日そんなの置いてあったかなぁ……」
「ハイハイ、ルノアの勘違い勘違い、ニャ。客の忘れものじゃニャかったら、誰かが忍びこんで置いていったとでも言うつもりかニャ? ぷっぷー、穴だらけの推理すぎてゲロ吐きそうニャ」
「これだから痴呆っ気のあるアホは困ったもんニャ……」
「うっわー、ぶっ殺してえー」
うるさい外野を放ってシルとリューはその本を観察する。
分厚い本だった。
表紙に秩序のない幾何学模様が刻まれ、題名は何も記されていない。
ただわかるとすれば、緑色に塗装されたこの本は、決して普通の書物ではないということだ。
「……待ってください。まさか、これは……」
何かに気付きかけたリューだったが、その前にミアの怒声が響き渡った。
「何べん同じこと言わすんだい! それとも言っただけじゃあわからないって!? よぅし、アタシが直接アンタ達の体へ“教えて”あげようじゃないか!」
みんなが怯えた。
「ま、待つニャ、母ちゃんっ。ミャー達は不審物を発見したのニャ!?」
「これっ、これっ!」
「シル、早くお見せするニャ!」
「んん、不審物ぅ?」
迫ってきたミアが怪訝そうな顔をした。
周囲に促されたシルは「あ、うん」と数歩前に出て、リュー達に背を晒す。
「ミアお母さん、これ、どうやらお客様の落し物のようなんです。どうしましょうか?」
「……ああん?」
シルと向かい合い本を見るミアは、顔を思いきり顰める。
「……店の中で目につきやすそうなところに置いときな。馬鹿じゃなかったら、忘れたことに気付いて取りにくるだろ」
「はい、わかりました」
ぺこりとシルが頭を下げ、その場は解散となった。
ミアのお叱りもあっていつも以上に店員達は準備に精を出す。
そんな中でリューだけが、腑に落ちない眼差しでシルと本を追い続けていた。