2023.06.22
裏路地を進んでいた。
メインストリートに沿って広がる華やかな街とは、趣が大きく異なった細道。
上を見上げれば、レンガ造りの民家によって切り取られた空も、同じように細長い。
底をオレンジ色に染めた雲に見下ろされている小径はどこか薄暗かった。日が没しようとしている。
お粗末に設置されたゴミ捨て場に黒猫がたかっており、金色の目を向けてきた。にゃーん。逃げていってしまう。
ペタペタ、と小さな足音が響く。
迷宮よりも迷宮らしい複雑な道の連なりを歩み、角をいくつも折れ曲がり、やがてお目当ての建物が現れた。
少し開けた場所にぽつんとたたずむ、老舗。老舗どうか知らないが、そんな雰囲気。
木材だけでできた一軒家の上には、掠れて文字の見えなくなった看板が首を傾げていた。
ドアを開けて中に入る。鐘の枯れた音が鳴る。
「ああ、またお前さんか」
「お願いします」
白い髭を蓄えた丸禿のノームが情報紙から顔を上げた。帽子を被っているが、知っている。毛はない。
言葉少なに抜き身の短刀をカウンターに置く。
「ふぅん、これまた変わったものを持ってきて……」
眼鏡の位置を調整しながら短刀をつぶさに見つめた後、店の主人は「少し待っとってくれ」と言ってその場を立った。
店の奥に消える丸い後ろ姿を見送り、数え切れないアンティークに飾られた店内を眺める。硝子のケースの中に並べられる色とりどりの宝石群に感嘆の息をついた。
思ったよりずっと早く、ノームの店主は帰ってきた。
珍しくしかめっ面を浮かべている。
「何じゃいこりゃあ? ゴミかい?」
「なっ……」
「押しても引いても何も切れはしないし、中身も“死んでおる”。珍しいのぉ、お前さんがこんなものを掴まされるなんて」
「ま、待ってくださいっ、そんな筈は……!」
「といってもなぁ。間違ってもこんなモノ、お得意さんに回すわけにはいかんし……ウチでよければそこら辺に飾るよ? 30ヴァリスでどうだい?」
「っ……また来ますっ!」
「おうおう、今度は期待しとるよ。……でもあのミミズがのたくったようなワケワカメな文字、ジジイどっかで見たことがあるような……」
肩を震わせながらドアを行儀悪く閉めた。
再び裏道に入り、ベタッベタッ、と来る時より乱暴な足音を鳴らしていく。
30ヴァリス? ジャガ丸くんの値段と一緒?
馬鹿を言うな、これは化物の硬い殻を苦もなく切り裂くことのできる業物だ。豪邸を三つ作ってもお釣りが来るほどの価値がある筈だ。
ついに店主はボケたのかと考える。しかし、昨日来た際には満足のいく値段を提示してくれた。果たして一日で頭がおめでたくなるものなのか。
彼の鑑定眼は本物だ。ギルドの職員などとは比べるまでもなく。
あれ以上の鑑定士、この都市の中では知らない。
(どうして……?)
手に握るナイフを見る。
刀身から柄まで薄暗い路地の影と一体化していた。真っ黒だ。
こんなにも、腐ったような暗い色をしていたかと違和を覚える。
あの時は、鋭い紫紺の光沢を帯びて、宙に光の軌跡さえ描いていたというのに。
(【Ἥφαιστος】のサインがあれば……鞘がいる……)
動かぬ証拠を突きつければ、例えガラクタだろうが高値で引き取るだろう。
鞘だ。鞘が必要だ。
冴えない黒刃を見下ろしながら思考をまとめあげた。
予定を変更して、危険を冒してでも、もう一度接触するしか……
「すいません、シル。荷物持ちなどさせてしまって」
「うん、それは平気だけど……リュー、いつもこんな道を通っているの?」
「ええ。道順を把握してしまえば、こちらの方が遥かに時間の短縮になります。シルが危惧しているほど不便ではありません」
「そういうことじゃないんだけど……」
前から人が来た。エルフとヒューマン。二人して紙袋を抱えている。
視線を切り、さっとナイフを袖の中に隠す。
ここまで深い裏道を人が通ることに驚きながら、自然に彼女達の横を通り過ぎる。
「待ちなさい、そこのパルゥム」
有無を言わせない声が背中に浴びせられた。
思わずぴたっと足を止めてしまう。次いで、ぶわっと汗が背筋を犯した。
何故呼び止められたのか。
まさか、という信じられない思いが頭の隅で明滅する。
「袖にしまったナイフ、それを見せてほしい」
盛大な舌打ちを心の中で放った。
「リュ、リュー?」
「……何故ですか?」
「知人の持ち物に似ていたので。もしよろしければ確認させてほしいのですが」
どんな視力をしていると悪態をつきたくなった。
この暗闇に、同じ闇色の刀身。目の良いパルゥムでも見極めることは難しい。
「生憎ですがこれは私のものです。貴方の勘違いでしょう」
反論の隙を与えず動き出す。
要求を突っぱねって、その場を立ち去ろうとした。
「抜かせ」
場が軋んだ。
「……ッ!?」
「【
氷の刃を首筋に押しつけられたかのようだった。足首も凍らされる。
見ずともヒューマンの少女がぎょっとしたのがわかった。それほどまでの威圧だ。
振り向けない。振り向きたくない。
「え……えっ……?」
「動かないでください」
「…………」
歯が噛み合わない。呼気は震える。心臓が骨を突き破ってきそうだった。
カツカツ、と足音が迫ってくる。距離と言えるほどの間合いなんて存在していない。
こうなったら、遮二無二だ。でたらめに動いて逃げ切るしかない。
折れそうになる膝に喝を入れ、相手の足が宙に浮いた瞬間、別れ道めがけ地を蹴った。
「警告はしました」
曲がり角に入ろうとした瞬間、途轍もない衝撃が手を襲う。
「いぎっ!?」
林檎だ。
林檎が、爆発した。
ナイフを持っていた左手に赤い果実が直撃し、木端微塵に砕け散っている。
ショッキング過ぎた。
「腹に力をこめた方がいい」
「――」
ナイフを取り落とし、そこで後方を振り向いてしまった。
冷静な空色の瞳で、足を大きく後ろに反らしたエルフが、自分を見下ろしている。
そうか。自分はボールだ。ふざけんな。
間髪いれず足が振り抜かれ、予告通り脇腹を打ち抜いた。
「ふぎゃあっっ!?」
「な、何っ?」
ギルド本部のある北西のメインストリートを疾走していた時だった。
裏路地の方向から何かを殴打するような引っくり返すような、とにかくけたたましい音が鳴り響いてきたのは。
紛失した《ヘスティア・ナイフ》が路上に落ちていないか確かめるため、元来た道を逆走していたベルだったが、明らかに自然に起きたものではない騒音に足を止めてしまう。
周囲の亜人達もベルと同じ行動にならう中、次の瞬間、一本の裏道の入口から大量の猫がどばっと駆け出してきた。ベルは藍色の目を限界まで剥く。
にゃーにゃー! と悲鳴をあげて何かから逃げ出してくる猫の波。人ごみの足の下を次々と縫っていく。
大混乱に陥るメインストリートに汗を流しながら、ベルは裏口の前まで一人近寄った。
そして、そぉっと覗こうとしたその時、どしゃあっと派手な音を立てて、足元に小柄な影が倒れ込んでくる。
「リ、リリ!?」
「ふ、ふあ……」
思いもよらない人物の登場に動揺しつつ、ベルは膝をついてリリルカの肩を揺すった。
小さな体が小刻みに痙攣している。既に満身創痍だ。
「ちょっ、どうしたの!? 何かあったの!?」
「そ、その声は……ベル様っ?」
生まれたての子鹿のように震えながら四つん這いになるリリルカは、一瞬焦ったような顔をしたが、すぐに不出来な笑顔を作る。
「シ、シシシシッ。実は、凶暴な女……じゃあなくてっ、野良犬に襲われてしまいまして……」
「だ、大丈夫なの!?」
「なんとかぁ……」
クリーム色の外套はそこまで汚れていなかったが、リリルカは大きなダメージを負っているようだった。
ベルはひとまず彼女を抱き上げ、裏口の前から脇にずれる。
ポーションあったっけっ、と動転しながら小型のレッグホルスターに手を伸ばしかけたところで、
「まさか逃げられるとは……」
ザッ! と靴を鳴らし、エルフのリューが裏路地から姿を現した。
昨日見た時と同じように片手に紙袋を抱いている。
「今度はリューさん!? な、何が起こってるんですか、一体!」
「ああ、ちょうど良かった。実は貴方の……」
ベルの顔を見て何か言いかけたリューだったが、へたり込んでいるリリルカを見てすっと目を細めた。
子猫のように震えあがったリリルカは、何事かを呟いて、深く被ったフードの上をそっと手で撫でる。
「クラネルさん、どいてください」
「え、ちょ、ちょっと!?」
「ひゃっ!」
ベルを押しのけるような形でリリルカの外套に手をかけたリューは、躊躇なくそのフードをはぎ取った。
あらわになる大きな瞳と、ぼさぼさのダークブラウンの髪。そして醜悪な大きな傷痕。
顔を恐怖で引き攣らせるリリルカをじっと直視したリューは、「失礼しました」と詫びてフードをすぐに戻した。
「な、何しちゃってるんですか貴方は! リリ、大丈夫!?」
「は、はぃ……」
「すいません、人違いでした。少々気が短くなっていたようです」
何のこっちゃ、とベルは目まぐるしいことの成行きに混乱する。へなへなと地面に崩れるリリルカを支えながら、顔を裏路地とリューの間で往復させた。
しばらく、一人だけ状況に置いてきぼりにされている孤独感を味わっていると、再び裏道の方から人影が現れる。
ぱたぱたと音をたてやって来たのは、これまた両手で紙袋を抱くシルだ。
「リュ……リュー! 食べ物をあんな風に使っちゃダメ! お母さんに怒られるよ!」
「それは、困ります……」
「あのぅ、そろそろ、説明をしてもらえると助かるんですけど……」
「あ、ベルさん」
こんにちは、と律儀に頭を下げるシルに「ああ、どうも……」とベルは生返事をする。
リューは二人のやり取りを少しの間見守っていたが、やがて率直にベルへ質問した。
「クラネルさん。貴方は今、あの黒いナイフを持っていますか?」
「あっ、そうだったっ! 二人とも、上から下まで真っ黒なナイフをどこかで見たりしませんでした!?」
思い出したように取り乱し始めたベルに、リューとシルは視線を交わし合う。
リューはベルに目を戻すと、切れ味の全くない抜き身の短刀を懐から取り出した。
「これですか?」
「うああああああああああああああああああああああああああああああぁっ!!」
ベルの大歓声が夕暮れの空を貫く。
凄まじい大音声に、種族が全く異なる少女達は、思いっきり肩を跳ねさせた。いつも冷静沈着なリューさえもその空色の瞳を見開く。
「ありがとうッッ!! 本っ当にっ、ありがとうございますぅっ!!」
「……クラネルさん、その、困る。こういうことは私ではなく、シルに向けてもらわなくては……」
「リューなに言ってるの!?」
ベルは半泣きして、がしっっとリューの滑らかな白い手を両手で包んだ。
ぐっと間近に寄せられた子供のような泣き顔に、彼女はらしくないほど狼狽して目を逸らす。
シルの悲鳴を聞きながら、ごしごしと顔を拭うベルは漆黒のナイフを受け取った。
「あぁ、良かったぁ……。神様ゴメンナサイ、もう二度と落としたりしませんっ……!」
「落とした……?」
ベルがナイフを額まで持ってきて誓いの言葉を紡ぐと、そのガラクタはあたかも機嫌を戻したかのように紫紺の光を帯び始めた。
ただの棒状の塊が、《ヘスティア・ナイフ》へと舞い戻る。
ぎょっ、とリリルカがその大きな瞳をより大きくした。
「すいません、本当に。これ、どこにありましたか?」
「あった、というより一人のパルゥムが所持していました」
「パルゥムっ?」
リューの返事にベルは目を丸くした。
その種族の名を聞いて反射的に後ろを振り返りそうになったが、首の筋肉を総動員してそれを阻止する。安易に疑いの目を向けるのは許さなかった。
パルゥムの少女は、フードの中に隠れてここぞと緊張の面差しを浮かべる。
「もしかして、さっきのは……」
「ええ、先程までそのパルゥムを追いかけ回していたのですが、逃げられてしまい……この場にいた彼女を疑ってしまいました。すいません、私の早とちりです」
「早とちり、ってことは……?」
「はい。そのパルゥムは“男”でした」
おくびにも出さないようにベルは思わず安堵した。馬鹿だなぁ、と自分のことを思いながら。
そしてその後ろで、彼以上に安堵の表情をフードの中で浮かべるリリルカがいた。
「身近に男性のパルゥムはいますか? 何か見覚えは?」
「いや、ないですけど……」
「では、やはり貴方が落としたものをあのパルゥムが拾ったのでしょう。昨日、裏道で貴方のナイフを見ていたのは僥倖だった。変わったナイフでしたので、少し見ただけでも見当がつきました」
「ああ、そういうことですか」
ベルとリューが話しこんでいる間、リリルカは居心地悪そうにしていた。
シルはそんな彼女を両手に抱える紙袋の間から静かに見つめる。
やがてリュー達が買い出しの途中ということで別れることになった。
ベルはもう一度二人にお礼を言って、リューは表情を変えず会釈をし、シルは自分は何もやっていないと苦笑する。
裏道へと戻ろうとする彼女達に道を開けたベルだったが、その去り際、シルがリリルカの耳に唇を寄せた。
「――あまり“おいた”しちゃダメよ?」
「!!」
ぞくっ、とリリルカの肌が泡立つ。
びくっ、と小さな体が可哀相なくらい揺れた。
シルは何でもなかったように立ち上がり、怪訝そうな顔をするリューと一緒に裏道へ戻っていった。
「リリ、今シルさんに何て言われたの?」
「べ、別に…………ぁ、あの、ベル様?」
「なに?」
「あの人達は、何者なんですか?」
「酒場の店員さんなんだ。『豊饒の女主人』っていうところの。結構有名みたいなんだけど、リリは知ってる?」
「……ベル様」
「へ?」
「絶対に、リリをそこへは連れてかないでくださいね……」
泣き笑いを浮かべるリリルカに、ベルは「えっ、ああ、うん……?」と答えることしかできなかった。
情緒不安定にしか見えないその姿を見て、静かに汗を流す。
西日が照り、ようやく混乱が収まり出した大通りで、ベルとリリルカはしばらく奇妙な空間を共有し続けた。