2023.10.05
日が暮れて、月が出て、夜が明けて、東の空からまた日が顔を出した、今日。
僕は昨日までならまだホームにいる時間帯に、バベルの門の前へやって来ていた。
昨日の男とのやり取り。
ダンジョンにもぐっている最中も、男と交わしたあの言葉が頭から離れず、僕はモンスターの他にもすれ違う冒険者達に警戒を払っていた。
そして今日も。
リリのことが気になってしょうがなかった僕は、いつもより遥かに早い時間へ集合場所であるバベルへ足を運んでいる。
正直、リリを不安にさせている自覚がある。
しつこいくらいに自分のことを確認してくる僕のことを、リリは怪訝に思っただろう。
何か尋ねてくるということはしなかったけど、不安そうな心細そうな、そんな暗い表情をずっと浮かべていたように思う。
余計な心配させたくないから事情は話してないけど……黙っているのが心苦しい。
散々悩んだ挙句、昨日、思いきってリリを誘いもした。しばらく夜も行動をともにしてみないかって。
ホームへ呼ぶのは神様の許可がないといけないから僕だけじゃ決められないけど、そうじゃなくてもバベルの宿泊施設なら付きっきりでいられる。僕がリリの隣室を取ればいいだけの話だ。
せめてもう危険がないと判断できるまで――と僕は僕の都合で勝手にそう思っていたわけだけど、まぁ、当たり前というか何というか、断られてしまった。
あの小気味のいい笑い声でやんわりと拒絶され、取りつく島もなく。
リリも女の子だから、むしろ僕の要求の方が無神経すぎる。何言ってんだコイツと思われたかもしれない。自分ですらそう思うくらいだし。
でも、なぁ……。
「……ベル様?」
「あっ、リリ。おはよう」
ぐたぐたと考えて気を揉んでいると、リリがやって来た。
目を丸くしているリリに、僕は一先ずの安堵を抱きながら挨拶をした。
「……シシシシッ。おはようございます、ベル様。まさかこんな時間にベル様がいるなんて、リリは自分の目を疑ってしまいました」
「あはは、そうだね。どんな時でもリリは僕より早く来てたし」
思ってた通り、男は宿泊施設……バベルの中で騒ぎを起こす気はないらしい。
ギルドの膝元で何か事件を起こせばたちまち御用になる。もし冒険者の登録を取り消されれば、魔石やドロップアイテムは買い取ってもらえず見返りなしで引き取られるし、【ファミリア】の脱退――つまり神様から切り捨てられる可能性も出てくる。
最悪牢屋行きで、刑罰。
冒険者に対する法は、冒険者達のアウトローっぷりからほぼ形骸化しているって話だけど、ギルドも動く時に動かなければ示しがつかなくなる。
犯罪行為は取り締まられると考えていて問題ない。
「ベル様」
「あ、ごめん。なに?」
「今日は10階層まで行ってみませんか?」
「えっ……」
思考に耽っていた僕を、リリの不意の提案が叩く。
僕は驚きの表情で見つめた。
「どうして、いきなりそんな……?」
「シシシシッ。ベル様、リリがお気付きにならないと思っていたのですか? ベル様はとうに10階層までは踏破できる“実力”をお持ちになっているのでしょう?」
「……」
リリの言う“実力”が【ステイタス】のことを示しているのは、すぐにわかった。
確かに僕は『敏捷』を初め基本アビリティがAやBの段階に突入しつつある。ギルドの示すダンジョンのランクでいえば、Lv.0の冒険者が攻略可能とされる最下層、11~12階層までの規定をクリアしていることになる。
それでも今すぐに下層に降りようとしない理由は、僕がソロだからということ。
いくら階層のランクと能力が拮抗していても、モンスターの数は無限だ、単独ではギリギリの綱渡りを常に強要されてしまう。一つのミスが冗談抜きで命取り。
何より、10階層以降はダンジョン自体の性質がそれまでの階層より殊更悪辣になる。地形条件が牙を剥くっていうのかな? とにかく各アビリティ評価Fで7階層に挑むのと、評価Sで12階層に挑むのとでは難易度の桁が違うのだ。
少なくとも、12階層はLv.1の冒険者が手始めに挑むっていう、そういう次元。
実は、僕はもう9階層まで危なげなく到達階層を増やしている。
このままの調子なら、例えソロであっても11階層以下はともかく10階層までは行けると、リリはそう判断したんだろう。
事実、僕も手応え自体は感じてる。やれるという確信もあった。
それでも、僕が迂闊に10階層へ足を踏み入れようとしなかったのは。
出るのだ、10階層には。
これまでの階層には姿を現さなかった、『大型級』のモンスターが。
……そう、“あの”ミノタウロスのような。
「……でも、僕、この前7階層で死にかけたばかりじゃない? そんな僕が10階層に行っても……」
「ですが、あの慢心が招いた失敗を経験したからこそ、今のベル様には驕りはありえないのではないですか? あえて言えば、痛い思いをしたベル様は冒険者様の器としてより完成されたと、リリはそう感じています」
「……」
「それにベル様は魔法を手に入れました。あの魔法は強力です。今のベル様には死角は存在しません」
昨日リリには【ファイアボルト】の行使を見せてある。
『魔力』の強化(神様には昨夜【ステイタス】更新をしてもらった)と使い慣れるっていう意味合いの方が強かったけど、リリには絶賛されていた。
『速攻魔法』という属性は、それだけソロでダンジョンにもぐる僕にとって価値がある。
「他の冒険者様のパーティに随伴して、11階層まで降りたことのあるリリが太鼓判を押しましょう。ベル様は10階層を楽に攻略できます。“絶対”です」
僕はかなり悩んでいた。
魔法を手に入れる前から、エイナさんからは10階層まで降りる許可はもらっている(厳重注意だったけど)。
そう考えると、リリの口にした通り、魔法が発現した今なら10階層は確実に攻略できる。
そんなことを言い切れるくらい魔法の力は計り知れない。形勢逆転の必殺技、どんな事態をも打破しえる可能性。“それが魔法というもの”。
【ファイアボルト】の存在は僕の自信の源泉になっていた。勿論頼り過ぎるのはいけないけど、とにかく心強い。
前進か、現状維持か。
僕は岐路の前でしばらく立ちつくす。
「……実は、リリはお金を用意しなければいけないのです」
「っ! もしかして、それって……」
「事情は言えません。ただ、リリの【ファミリア】に関係することなので……」
あたかも、迷う僕に追い打ちをかけるかのように、リリは自分の事情を打ち明けた。
昨日リリが三人組の冒険者達に絡まれている光景が蘇る。意識を離れて僕の右手はびくっと痙攣した。
「どうか、リリの我儘を聞いてくれませんか、ベル様?」
リリは頭を下げ、そろっと上目がちに僕を見上げる。
もし本当に【ファミリア】の約束事だった場合、僕の干渉は――リリの必要とする
他の【ファミリア】の構成員に見返りもなしに助けられたとなれば、その【ファミリア】の名前に泥を塗ることになる。恥と言ってもいいかもしれない。
僕にはリリの事情を確かめる術がない。尋ねてもきっとリリは本当のことを言わないだろう。同じ状況だったら、僕だってそうする。
僕は右手をぎゅっと握り、覚悟を決めた。
「わかったよ。行こう、10階層」
一瞬、僕を見上げるリリの大きな瞳が、前髪の奥で細まった気がした。
けれどそれは幻覚だったかのようにリリの顔には笑みが咲いた。
「ありがとうございます!」とはしゃいで僕に何度も頭を下げる。
僕は苦笑いした。
「じゃあ、すぐに出発する? それとも、念のためにバベルの中でアイテムを補充しとこうか?」
「アイテムの方はリリが昨日揃えておきました。それよりベル様、これを使ってみませんか?」
「……これって」
地面に下ろしたバックパックからリリが取り出したのは、墨色の柄の短剣だった。
《神様のナイフ》が刃渡り15Cくらいだとすると、この剣は50Cに届くか届かないかくらい。
ショートソード……いやバゼラードか、これ?
棒状の柄頭の部分と鍔が刀身に対して垂直の形を取っている。シンプルな形状の短剣だ。
【ヘファイストス・ファミリア】の店しか行ったことはないけど、どこの武器屋でも売ってそうな感じ。
「どうしたの、これ?」
「ベル様には悪いのですが、事前に準備させてもらいました。大型のモンスターと戦うことになると、今のベル様の武器ではリーチが短すぎますので。そうでなくとも、リリはもう少し射程があった方がいいと前々から思っていました」
「ええっと、くれるんだよね? タダで頂くってのはちょっと……」
「リリの我儘を聞いてもらうんですから、いわばお代です。もらってあげてください」
「……そういうことなら」
受け取った《バゼラード》を鞘から抜く。
銀の剣身は両刃で薄い。割と軽く、短刀の延長といえるので、剣を装備したことのない僕でも比較的取り回しは利きそうだけど……。
「いきなり長剣を渡されるよりマシだけど、平気かな? 【ステイタス】の補正もつかないし……」
「シシシシッ。10階層にたどり着くまで、試し切りを行ってみてはいかがですか? 7階層までの敵ならちょうどいいでしょう。それにリリの目が間違っていなければ、ベル様は短剣との相性もいい筈です」
沢山の冒険者パーティと行動をともにしていたリリの眼力は確かだ。
今日までの指摘は全てが的を射ていた。
僕はリリの言葉を疑わず信じることにした。
「あっ……僕、剣帯の装備がないや……」
剣を吊るすための装備がないことに遅まきながら気付く。
これじゃあ鞘が邪魔になっちゃう……。
「ベル様、ベル様」
「?」
「リリの記憶が確かなら、そのプロテクターには武器を収納できた筈では?」
おおっ、忘れてた。
僕自身が口にしていた言葉なのに。
僕は《神様のナイフ》を一旦プロテクターから取り外して、格納装置を調節してから《バゼラード》をあてがった。
問題ない。しまえる。
「リリ、よく覚えてたね。僕なんかすっかり忘れちゃってよ」
「シシシシッ。リリも閃いたように今思い出しました」
頭に手をやるリリは照れたような素振りを見せる。
僕は微笑を漏らしつつ、今度は《神様のナイフ》のしまっておく位置に迷う。
前は腰にやって落としちゃったから……レッグホルスターなら平気かな?
僕はちょうど空になっていた試験管サイズの嚢に《神様のナイフ》を差し込んだ。ちょっときついけど、まぁ平気だろう。念のため蓋をするようにカバーを留めておいた。
「……」
「それじゃあ、行こっか?」
僕の確認に、リリはフードの下でニコリと笑い、「はい」と頷いた。